会員の完走文/エッセイ集



2003大村湾一周160kmウルトラマラソン参加記

日時:2003年2月8〜9日

コース: 嬉野温泉旅館松園〜小川内〜子捨て谷〜俵坂〜東彼杵〜川棚〜ハウステンボス〜琴海町〜時津〜JR長崎駅前〜諫早〜大村〜東彼杵〜嬉野温泉旅館松園

参加:  藤原


【スタートまで】

  • 今回のイベントの基地となる旅館松園に到着した13時頃は、予報どおり雨。参加前に想定した忌むべきファクターの雨、風、寒さの1つ、当然それなりの装備は準備してきたものの、できれば避けたいところであった。 受付はいかにも手作りらしくフレンドリーなもので、ゼッケンと、ボランティアの方自製の反射板でできた円形のプレートを受け取る。
  • スタート最終組の出発は16時、早い方は、8時で、最も多かったのは12時、女性の多くはこの時間を選択されたらしい。このアーリースタートは各個人の力量による調整といった面の他、観光をするなどの目的も許容し基本ルートの変更もOKというものであるが、私自身は、主催者である佐藤先生のアドバイス「初心者は早めのスタートの方が無難」をいただいたものの、過去の100kmでは概ね11時間で完走できていたということから、いくら遅くても24時間あれば楽勝と考えていたため、申込み時点では悩むことなく16時出発を選択した次第。 なお、関連して、旅館での複数の参加者、ボランティアの方との話の中では、16時出発の人達は少し別格扱いされるかのようなニュアンスだったが、これは優越感というよりも不安感につながるものであった。
  • 控え室となる大広間で間接的知人である沖縄のKさん及び福岡のTさんと合流し、着替えて遅い昼食。 直前で効果があるかどうかは不明ながら、カーボローディング気分でうどん定食を食べた。この時点ではまだ雨。 なお、スタート前の会話を経て、今回は完走を第一目標にするため金魚の糞を決め込み、コースを試走済みのTさんにひたすらくっつくことにした。 Tさんの作戦は、はじめキロ7分、100kmを13〜14時間、後半はどうしても遅くなるから、最終的に1時間の余裕をみて確実にゴールしようというもので、金魚の糞としては、「お説ごもっとも、おっしゃるとおりに」である。

    【時津公民館まで】

  • スタート10分前になり、記念撮影をしていただけるというので玄関に集合する。この時点でも雨ながら、小雨。しかし、写真撮影の後、5分前には意を決して急遽雨具を脱ぎ、携行しないことにした。 因みに携行品は、ザックにチューブ付きポリタンク、防寒用ベスト、ピンチ食、保険証コピー、ヘッドランプ、防寒手袋、ゴミ袋、ティッシュ、バンドエイド、貴重品、ゼリー状食品の他、点滅式ベルトのウェストポーチに財布、ティッシュ程度である。
  • 予定どおり16時丁度にスタートし、KさんとともにTさんの後をいく。2〜3km地点で既に6人が最後尾集団となるが、全く焦りなく口と足を動かす。コースは今年少し変更され、距離が伸びて事実上も160kmの距離になったということだが、延長されたコース部分は唯一国道を外れ田舎の田圃の間を走るというもので、個人的には好みとするものであった。 国道34号線に戻ると、路側帯あるいは歩道を走り、しばらくして佐賀県を抜けて俵峠越えし長崎県東彼杵に入り、長い下り坂が続く。ゴール直前に逆を走ることを考えると憂鬱でもある。
  • 大村湾がようやく視界に入る10km前後の地点で最初のエードがあり、スポーツドリンク、ビスケットをいただく。因みにエードは、ワンボックス・カーの後ろを開け、小テーブルを路上において飲食物を並べるというやり方で、スピーディーな設置、移動のしやすさをもって良しとするものであった。さすがにこの時点では、みなさんもまだまだ十分に元気。
  • 少し走ってボランティアの方の誘導により国道205号線に入り、大村湾の反時計回りとなるが、対岸は遙か向こうにあるのか、全く見えない。このころには雨はあがり、また暑いため、上は長袖シャツ1枚で十分であった。 この道は佐世保につながる幹線道路であるため、交通量が多く、またコンビニエンスもあちこちにある。 20kmのエードは家屋を利用したもので、ストーブが焚かれていたほか、トイレも利用できた。 この頻度でエードがあれば、特にコンビニエンスをたよることはないという感じ。
  • このエードを出ると、少し薄暗くなってきたため、ヘッドランプを帽子の上からセットしたが、このランプ、LED4連装で5000円弱と値段は高いものの、単4電池2個で70時間も保ち、軽量コンパクトなものであった。 さすがにこのあたりで誰ともなく足に疲れを感じるという声が出て、また一団が別れがちになってきた。
  • 30km地点のエードではリンゴを1/3切れ食べ、またチューブ付きポリタンンを水で満たしてもらう。 ここの出発時点で、6人の団体はいくつかに分かれ、その後一緒になることはなかった。
  • 路側帯の幅が狭く、また交通量が多いため足下がよく見えず、少しストレスを感じる状態が続くうち、川棚を経てハウステンボス前に至る。この時点で丁度21時となり花火を見たが、後にしったところでは、この花火を見たのは、我々最後尾の6人だけとのことで、喜んでいいのか、悲しむべきことか。 しばらくして左折し、国道202号線に入ると交通量は極端に少なくなったが、今度は歩道が途切れがちになり、路側帯を走る場面も多くなり、これはこれでストレスの1つになった。
  • この大村湾は面積が321Iと広大である一方、外海とつながる間口は330mしかないため、間口にある西海橋付近には渦潮が見られるとのことながら、我々が通過したのは真夜中であったし、潮の流れのない時間帯であったため、特に特徴づけられることはなかったが、しいてあげれば、炭田さんあたりが「西海ブルース」を歌いたいとおっしゃるのではないか、ということが頭の隅に浮かぶ。 少しして40kmのエードがあり、ビスケットとお茶をいただく。このエード車は数台あり、最後尾の選手を確認しつつ選手を抜いて少しずつ先で待つということを繰り返す運営をされていたため、たびたび同じ方に会うことになる。 因みに、我々を抜くたびにクラクションを鳴らし、また窓を開けて大声で声援もしてくれるのがありがたく、特に真夜中にあってはいいリフレッシュになる。 このエードで、初めてアーリースタートした方と遭遇した。この方は途中でルートを間違えて余分に20〜30km走ったために気力も喪失されリタイアを決め込まれたようであったが、ご自身の中ではそのことが十分には整理し切れておらず、「過去にどんな長いレースでもリタイアしたことはなかったのに。」等のことばが聞かれた。
  • その後また左折し、国道206号線に入りと道沿いの人家が少なくなり、緩いアップダウンの繰り返しとなった。ペースは当初より少し遅くなった程度だが、まだ残り××kmといういやな計算はせずにひたすら走る。 このころからたまにコンビニエンスに寄るようにし、糖分たっぷりの飲料と、お腹にたまるものを摂るとともに、膝の屈伸などのストレッチを挟むようになった。 とりあえずの目標地点は80km地点の時津公民館であるが、まだまだ距離がある。 道路は相変わらず歩道があったりなかったりで、歩道があっても側溝のふたが突然とぎれていたりして危険な箇所がいくつかあり、実際、トップだった女性はつっこんでしまい、何カ所も負傷されたし、他にも顔に傷を負った女性もおられたが、スピードの速い方は特に危険度が高まるのであろう。
  • レース参加前の不安の1つとして、眠くなり走る気力をなくすのではないかということがあったが、この時点ではその兆候もなく足を動かすも、口の動きは相当少なくなった。これは疲れからというよりも、直列に走るため前後で会話しても声が聞き取りにくいことが理由。
  • 70kmのエードではなんとおでんもあり、同行するKさんはそれをチョイスしたが、時間のロスを押さえたいTさんは簡単に済ませ出発を急ぐことに。 どうもKさんは体調が十分ではないらしく、少し遅れていくことになった。因みにこのKさん。1月11日の宮古島100kmウルトラ遠足、翌12日の宮古島ワイドーマラソン100kmに連続完走され、しかも11日が14時間で12日が11時間の記録という実力者ではある。
  • 景色は相変わらず左手に大村湾を見つつ、西彼町、琴海町とひたすら距離をかせぐうち、道路標識に時津町××km、長崎市××kmが現れ始める。先行するKさんは、「いいペース。時津はもうすぐ」と気遣いをしてくれる。

    【ゴールまで】

  • 時津町に入り民家の数が増えはじめ、しばらくすると2人が明かりを大きく振り固定エードがあることを教えてくれる。2人のうち1人は主催者の佐藤先生。 このエードは時津公民館を借りたもので、衣類の交換、仮眠、食事、マッサージ、希望者には日本酒まで提供されるという大会最大のもので、食事作りのために多くのボランティアの方が見えた。 後に聞いたところでは、日本酒を4〜5合飲み干してちゃんとゴールするという、STRONGERさんを上回るような強者も実際にいるそうな。酒に弱い私には信じられないこと。 ここには40kmエードで会った女性の他、数人の男性がけだるそうに横になっておられたが、我々2人は、長い休憩は意欲を無くす可能性があること、少しでも時間を稼ぎたいことから、うどん等の食事とお茶だけにして早々に再スタート。
  • しばらくして長崎市に入ったが、県庁所在地だけありずいぶん広く、長崎を脱出するまでに30km近く走らねばならないルート設計になっている。 市街に入り、初めて人を追い抜く。この2人のうち1人は100kmさえ走ったことがなく、もう1人は実力はあるものの放っておけなくてつきあっているということだった。 県庁前あたりが90kmになるが、そこを過ぎて国道34号線に入ると、「おい、ちょっとまてや。ガハハ。お〜い。」と、ご機嫌そうな酔いどれの方々にからまれそうになった。普通の人からは、深夜にヘッドランプをつけ、ザックを背負い、ぴかぴか光るウェストポーチをつけ、飲み屋の前を走る2人連れは危ない人と思われても不思議はないか。 ま、そんなことはさておき、ひたすら足を進めるが、市街を抜ける道は一本調子の登りが続き、トンネル2つを経てようやく下りになる。ここで3人目を抜く。抜き去った人達はいずれもアーリースタートの方たちばかりで、最終的には16時スタートの人は2人しか抜くことはできなかった。
  • そのうち国道207号線になって諫早市に入り、ようやく100kmに達する。この辺りから、残りキロ数がちらちら。気になり出すと、距離が縮まなくなってくる。やれやれ。 時刻は7時前で、少しずつ明るくなり、夜が明けた。 Tさんが予定する100km13〜14時間のペースどおりで、後はさぼらず、あきらめず、か。 諫早のエードでは、昨年の萩往還女性第1位かつ、さくら道270女性第2位という高名な方を抜く。といってもこの方、今回は観光目的らしく、アーリースタートしてあちこち寄り道をされているとのことで、最終的に200kmは走破されたそう。
  • 国道34号線となり諫早を抜けると大村市となるが、この大村市がまた広い。お腹に入るものを余り食べていないことが気になるが、それでも確実に足を進め、1人また1人と抜いていく。 そのうち残り30kmぐらいのところで、突然、頭に白いもやがかかったようになった。人の声が音量半分に、景色は見えているのに夢で見ているようなイメージ。こりゃ危ないのではないかとTさんに聞けば、誰でもそうなることで、その状態で足を動かし続けることができるかどうかが完走できるかどうかの分かれ目とのこと。この感覚は初体験であるが、足だけは脳が命令しなくても動き続くことが不思議である。 エネルギー不足かとも考えたが、その後サンドイッチを食べても、アイスクリームや団子を食べても、ゴールするまで解消しなかった。
  • もうろうとした気分で走るうち、突如「ファンタ・グレープ」が呑みたくなった。優しいTさんは私のわがままを聞き、早速自販機でファンタ・グレープにつきあってくれる。 この辺りで更に歩いている3〜4人を抜き去る。 残り15kmほどでやっと大村市を抜けて東彼杵に入り、ほぼ完走を予感する。ペースはTさんの読みどおりで、キロ8〜9分にまで落ちているものの、足は動く。
  • 残り10km地点にもエードが用意されていたが、少し元気になったためにゼッケン番号だけを伝えて時間を稼ぐ。ここから先は7kmの登りが続くが、既にチューブ付きポリタンクの水はなく、寄り道をして500ccの飲料を3本飲んだ。既に砂糖入りのものはだめで、水かお茶しか欲しくない。 俵峠で佐賀県嬉野町に入り、残りは下りだけとなったところでTさんが急にペースを上げ、キロ6分程度にするも、残りが案外あることに気づき、また少し戻す。町中に入ってくると、再びペースを上げ、ゴール間近の2人を更に抜き去りゴールに至る。このとき15時04分で、途中リタイアしたKさんも握手で迎えてくれた。

    【ゴール後】

  • ゴール後は温泉で汗を流した後に、割り当てられた部屋で着替え、しばらく同室の方と談笑。少し眠りたい気もしたが、17時から大交流会を優先した次第。 この交流会は、ボランティアの方を含む参加者のほとんどが出席し、持ち寄った土産品の抽選、トーク、出し物などで和気藹々と進んでいく。 私などは疲れが先にあり、多くの酒を飲む気になれず、中締め後すなおに部屋に帰り、すぐに夢の中。 先輩諸氏はそうではなく、ビールも日本酒も焼酎もどんどんと消費され、中締めの後も宴会はにぎやかに続いたとのこと。

    【最後に】

  • 過去に出場したどのレースとも異なる体験で、さすがにゴール直後は萩往還250kmのことなど考えたくもなかったが、10日を経た現在は少しそのレースが楽しみになりつつある。



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