会員の完走文/エッセイ集
第9回(2009年)歴史街道丹後100kmウルトラマラソン大会完走記 (加地 敬)
日時:2009年9月20日(日)
午前4時30分スタート、午後6時30分ゴール関門
場所:京都府京丹後市(丹後半島)
ゲスト:増田明美(スポーツジャーナリスト、1984年ロス五輪女子マラソン日
本代表)
坂本雄次(マラソンコーディネーター、ランナーズ・ウエルネス代表取締役社長)
天候:曇り/晴れ
平均気温:20.9℃ 最高気温27.9℃ 最低気温17.9℃
記録:KAJI(46歳、178cm、86kg)
13時間50分24秒 制限時間14時間00分(100km男子)
順位618位/完走657名中/出走913名(完走率72.0%)
参考:100km女子 出走103名/完走81名(完走率78.6%)
エントリーに向けて
2004年第4回大会に60kmの部を7時間48分で完走できたものの、2006年第6回大会の100kmの部への挑戦は第3関門(73.4km:碇高原牧場)をクリアできず71km地点でのリタイアであった。
3年ぶり2度目の100kmの部への挑戦である。
この3年間は、仕事のことや家族や自分の健康のことなど気になることが多すぎてマラソンに打ち込める状況ではなかったので、再び挑戦できることに感謝しながら時間内完走を目標とした。
72km付近の碇高原牧場の手前の峠に向けた登り坂を克服できない限り制限時間内の完走は無理である。
大会2ヶ月前7月19日(日)に前日から峰山のビジネスホテルに泊まり早朝6時から夕方18時まで、ほぼ12時間かけてホテル→峰山駅→弥栄庁舎(56km地点)→アミティ丹後(100kmゴール地点)→網野駅→ホテル→峰山駅まで合計約70kmを歩き通して未体験の後半のコースを下見した。
スタートまで
過去2回は前日からの宿泊が必要であったが、今回より当日受付(午前3時10分〜4時10分)も実施された。後日受け取った大会記録集によると当日受付利用は192名で、前日受付の842名に比べるとはるかに少ない。
潟gップツアーの企画する往路バスツアーでは、前日JR新大阪駅を23時
に出発し、当日午前3時に会場到着・受付、午前4時30分のスタートに備えるというものである。前日移動で民宿の泊まっても、どうせあまり眠れないまま午前2時から3時に起きることになるので、車中泊もあまり変わらないと考えた。
前日20時前に京都の自宅を出発し、22時頃にはJR新大阪駅の観光バス駐車場に到着した。
普通の大きさの観光バス1台が男性用、少し小さな中型の観光バス1台が女性用であり、車中泊の強行軍でレースに臨む人はそれほど多くなかった。バスは座席指定であったが、二人掛けとなる場合と一人で二人分の座席を使えるケースに分かれたが、幸運にも一人で二人分の座席を独占できたので、あまり眠れなかったが、到着までゆっくりすごすことができた。
予定より少し早く午前3時前にスタート地点のアミティ丹後に隣接する体育館に到着した。早速、受付を済ませて、ゼッケンを付け、途中2ヶ所に預ける荷物の区分けを実施した。
第2関門(56km、弥栄庁舎)と第3関門(73.4km、碇高原総合牧場)の2ヶ所に荷物を預けるための紐が色違いのビニール袋が支給された。ゼッケン番号をマジックで記入し、それぞれに着替えのシャツ、靴下、シューズ、エアーサロンパス、ペットボトル、膝サポーター等を入れた。
やまちゃんに紹介いただい「ザバスピットインリキッド」(68g、170kcal)を10km〜15km毎を目安に補給できるようにウエストポーチに3個持ち、また預け荷物の中にも3個ずつ配置することにした。
ゼッケンは2組しか支給されないので、途中2回シャツを着替えるとすると1回は、安全ピンをはずしてゼッケンの付け替えが必要となる。前回は第2関門の着替えで少し手間取った経験から、あらかじめ2組目のゼッケンを装着したシャツへの着替えは第3関門のみを予定した。
スタートに先立ちゲストの坂本雄次氏と増田明美嬢からの挨拶があった。スターターは増田嬢であったが、少し時間があったのでマイクを握ってから5分位しゃべり続けた。スタート前にしては選手達に緊張感が全然感じられないというのが、増田嬢の感想であった。前日からの宿泊組も十分に睡眠をとってレースに臨む人はいないような感じであった。
スタート〜第1関門(30.0km:旧大阪府久美浜臨海学校跡地)
午前4時30分スタート。まだ真っ暗である。午後6時30分までの14時間以内にここまで自力で帰ってくることができるだろうか。
14時間(840分)で100kmなので、単純に計算すれば1kmあたり平均8分24秒でよいことになる。平均時速にすれば7.15km/hである。しかし歩
歩きの入る登り坂では、時速6km/h以下になることを考えると、平地は時速9km/h、下り坂は10km/hを行けるところまでキープしたいところである。
また、大きく分けて前半50kmを6時間で走破して、後半50kmに8時間を残すことを目標とした。
スタート後、しばらくは網野の市街地を走るが、浅茂川漁港を過ぎると、海岸沿いの街灯のない真っ暗な車道を標高180mの七竜峠に向けて徐々に登りとなる。前回、この登りで回りのハイペースに着いて行こうと無理をして吐きそうになってしまったので、今回は自分のペースで急な登りは遠慮なく歩くことにした。
7km付近の七竜峠展望台を過ぎると11.2kmの浜詰駐車場に向けては、待望の下り坂となった。出走時点で体重は86kg位あり、思ったほど減量が進まなかったので、やはり登り坂はきつく、下り坂は心地よい。
10km地点通過は1時間11分58秒、3年前より2分程度早く通過することができた。
16.6km地点の久美浜SANKAIKANでは、通常の給水以外に梨と特製スープが出された。応援に懸け付けていた増田明美嬢ともハイタッチ。
ここから30km地点の手前まで途中60kmの部のスタート地点となる久美浜カヌー庫前を通り久美浜湾を時計回りに走ることになる。午前9時の60kmの部のスタートまではまだ随分時間があるので、会場付近にいる大会役員や選手はまばらである。
20km地点通過は2時間25分17秒(10kmラップ:1時間13分19秒)であった。
しばらくは大きなアップダウンはないのでペースを上げたいところではあるが、車中泊の睡眠不足の影響のせいか足にあまり力が入らない。
30km地点通過は3時間43分44秒(10kmラップ:1時間18分27秒)であった。
第1関門(30.0km)〜第2関門(56.0km:弥栄庁舎)
30kmの給水ポイントでは、大会役員の方にお願いして携行していた使い捨てカメラで写真を撮ってもらった。後で見ると、まだ比較的元気そうな顔をしている。
40km手前で2度目の七竜峠越えがあるので、35kmを過ぎると、また嫌な登り坂が始まる。走れないところは歩くしかない。歩くにしても時速5km/h以上をキープできれば、それなりに進むはずである。できるだけ大股で歩くようにした。また、歩きの中にも、時々、小さな声を出して歩数をカウントしながら、100歩だけ、あるいは50歩だけでも走りを入れるようにして、歩いている人を一人でも抜いてから、また歩くことを繰り返した。
前半の山場となる2度目の七竜峠越え(39.3km地点)である。峠付近が給水地点となっており、比較的多くのランナーが立ち止まり下りに備えて休憩をしていたが、私は歩きながら給水だけして、立ち止まらないようにして、とにかく下りに向けて少しペースを上げた。
今回の完走に向けては、給水地点での滞在時間は必要最小限にとどめて、とにかく歩きながら少しでも前に進み呼吸を整えるという作戦にした。
そのため、給水地点で抜いた同じくらいのペースの人にその後追い抜かれ、また次の給水地点で抜き返すが、また追い抜かれるということが、何度も繰り返された。
40km地点通過は5時間7分34秒(10kmラップ:1時間23分50秒)であった。午前9時30分を少し回ったところである。
第2関門(30.0km)〜第3関門(73.4km:碇高原牧場)
42km付近まで一気に下りとなるが、膝に衝撃を与えないようにスピードをセーブしながらも、体重を乗せて流すように走った。早朝のスタート直後、周りのペース配分に合わせて、この坂を登るにはつらいはずである。
42km付近でいったん平坦になるものの、もう一度、標高100mに向けてダラダラと登りが続く。走っては歩き、歩いては走ることを繰り返す。
このあたり左手には日本海が広がる。オールスポーツの潟tォトクリエイト社による写真撮影ポイントがある。撮影ポイントの手前で、別のスタッフの方から、この先に撮影ポイントがあるので、ゼッケンを見せて下さいと看板を見せられ、声をかけられた。
後日で購入した走行中の写真を見ると日本海を背景にさっそうと走っているように見える。顔は元気そうであり、完全なカメラ目線である。
44km付近の峠を越えると44.6kmの第10給水ポイント・網野町浅茂川漁港まで一気に下る。すでにフルマラソンの距離を越えた。ここには、1つ目のファイテン元気ステーションが設置されている。ファイテンのスタッフの方が10名程待機し、ランナーに脚マッサージを施してくれる。
ファイテン鰍ヘ、当大会の特別協賛である。3年前に知ったのだが、ファイテン鰍フ社長はこの網野・浅茂川の出身だという。
3年前は、偶然そのファイテン鰍フ社長からマッサージを受けた。
ここでは、特製うどんも支給されるため3年前はここで2杯食べた記憶がある。3年前でマッサージとうどんで5分以上休憩したことになる。今回は、当初の作戦どおりうどんも食べずに、歩きながら給水を済ませて、歩きながら通り過ぎることにした。地元の中学生も応援してくれている。写真を1枚
だけ撮ってもらった。ここからはウルトラの世界である。
網野の市街地を通り抜けるが前回と少しコースが変わっている。平地なのでできるだけ歩かないよう、立ち止まらないように少しずつでも走る。目指すは、50kmの中間点と56.0kmの第2関門(弥栄庁舎)である。
50kmの中間地点通過は6時間32分26秒(10kmラップ:1時間24分52秒)であった。目標の6時間での通過はならず約30分遅れである。後半50kmを残り7時間半で行けるだろうか。平地でできるだけ時間を節約し距離を稼いで60km以降72km付近までの碇高原の峠に向けた登りに備える必要がある。
日差しも強くなってきたせいか3km先の次の給水ポイントまで気力が持ちそうにない。自動販売機で冷たい缶コーヒーを飲み鋭気を維持した。
51.6km地点の丹後あじわいの郷は休日のため家族連れで賑わっている。園内を1周することになるが疲れた脚には結構なアップダウンに感じた。
コースは府道に戻るが、56.0kmの第2関門(弥栄庁舎)までは何度も歩いてしまう。前回は午後12時15分(スタート後7時間45分)の第2関門時間をギリギリでの通過となり、残り2時間25分で第3関門までの17.4kmが絶望的となった地点でもある。碇高原に向けては410m程の登り坂が含まれコース最大の難所である。
第2関門通過は、午前11時50分頃であった。約25分の余裕があったことになる。当初の作戦どおり予備のために預けたシャツやシューズの交換は実施せず、預けたウィザーゼリーで栄養補給し、また、ザバスピットインリキッドを3個補給して弥栄庁舎を後にする。
この弥栄庁舎は第13給水地点でもあり、梨、ぶどう、特製ばら寿司が支給されていたが、それらには手をつけずに歩き始めた。
ここからは7月19日(日)に下見したコースと合流する。
58km付近の黒部交差点で、60kmの部の選手は左に、100km部の選手は右に分かれる。
正午過ぎであり日差しが一層強くなってきた。4km先の次の給水ポイントを前にタバコ屋前の自動販売機前で500ccのスポーツドリンクを補給した。
60km地点通過は8時間2分19秒(10kmラップ:1時間29分53秒)。5年前の60kmの部の完走タイムが7時間48分であったことを考えると、わずか14分違いで60kmを通過したことになる。まずまずのペースである。
時刻は午後12時30分を過ぎ、午後12時15分で第2関門(56.0km)は閉鎖されているはずである。第2関門を通過した選手が自分より後ろに何名走っているのだろうか。
登りに入る手前の交通規制ゲート前が60.3km地点の第14給水ポイントである。これから72km付近の最高点(標高410m)を通過し、第3関門(73.4km碇高原総合牧場)を午後2時40分までに残り約2時間で走る(歩く)必要がある。
平地であれば2時間で13kmを走り切るということは大したことはないが、コース最大の登り坂を控え、今の気候や身体の疲れ具合からするとギリギリのように感じる。
登り坂は200mまで登り、いったん150mまで下り、しばらく平地が続いた後に68km付近から約4kmで一気に410mまで上ることになる。リタイアした3年前及び7月19日(日)の下見で歩いたコースであり、微妙なアップダウンは多少記憶に残っている。
歩きながらも、時折、小さな声で歩数をカウントしながら100歩ダッシュ、無理なら50歩ダッシュを織り交ぜながら、歩いている人を1名だけでも抜いてから再び歩くようにした。
70km地点通過は9時間27分24秒(10kmラップ:1時間25分05秒)であった。時刻は午後1時57分。残り43分で3.4km。何とか行けるか。
71kmの最高点を通過すると73.4kmの第3関門までは、少し下りになる。体重を乗せて少しスピードを上げた。夢にまで見た第3関門通過は目前である。
午後2時25分、関門閉鎖まで15分を残して、第3関門を通過。これからは、しばらく大好きな下り坂が続くことを考えると時間内完走が現実的なものとなる。
ここではイスに腰をかけて、シャツとシューズを交換した。忘れないようにシューズに付けたチップも交換して、さらにはスタート地点から携行していたオムロンの歩数計を預け荷物の中に置いていくことにした。歩数はすでに70,000歩を超えている。このまま100kmのゴールまで装着すると、1日当たりの計測上限値である99,999歩を超えて歩数が「0歩」に戻ってしまうためである。
関門通過ができなかった選手を収容するための観光バスが2台か3台待機している。3年前はフラフラになりながら下り坂を走る選手を横目に自分もこの収容車に乗った。
両脚の膝に下り坂対策のゴムが強めのサポーターを装着した。シューズは底が少し厚い買ったばかりのニューバランス社製である。
第3関門(73.4km)〜第4関門(87.2km:丹後庁舎)
碇高原総合牧場からは約6kmで一気に400mを下ることになる。膝へのダメージのため次の第4関門を通過できなかった人の話も聞くので、下りは慎重に行く必要がある。
もったいないとも思ったがニューバランスの靴底をできるだけ地面に擦り付けながら膝へ強い衝撃が加わらないように工夫した。膝サポーターは、私の太い脚には少しきついようであり、かなり締め付けられるような感じもした。
最初は楽と感じた下りも長時間続くと少し苦痛になってきた。何名にも抜かれたが、気にせずマイペースを維持した。
80km地点通過は10時間55分02秒(10kmラップ:1時間27分38秒)であった。
下りの坂に別れをつげて国道178号線に入る。片道1車線の国道であるが交通規制はされていない。ランナーは左側走行が義務付けられ、ドライバーの方へは、丹後ウルトラマラソンへの協力依頼の看板が目立つ。
膝への衝撃がずしりと来る。ゴールまで残り20kmも走らないといけないのか。
日本海を右手に見ながら第4関門(87.2km、丹後庁舎)を目指す。小刻みなアップダウンや長いトンネル内の走行もあった。
85km付近で黒部交差点で分かれた60kmの部の選手と合流する。彼らもすでに45kmを走っており、疲労の程度は100kmランナーとも変わらないはずである。
第4関門の丹後庁舎への到着は午後4時26分。関門閉鎖の午後4時38分まで残り12分しかない。
丹後庁舎は第24給水地点であり、特製魚つみれ汁が用意され、また第3ファイテン元気ステーションも設置されていたが、当初の作戦どおりそれらには目もくれず、給水だけ済ませて、ゆっくり歩き始めた。
第4関門(87.2km)〜ゴール(100.0km:アミティ丹後)
ゴール関門の午後6時30分まで残り2時間4分(124分)で、残り12.8km。時間内完走を確信した。ゴールまでの最高通過点は標高50m程度であり、大した登りはない。
冬場のかに料理で有名な間人(たいざ)の旅館街を通過し、日本海を右手に見ながら進む。
87.5km以降は2.5km毎の距離表示が励みになる。
90km地点通過は12時間16分33秒(10kmラップ:1時間21分31秒)であった。残り10kmを103分で行けばよいことになる。
95km地点を過ぎると残り1km毎のカウントダウンが表示される。時間内完走であれば、順位やタイムは関係ないので、時々、写真を撮りながら進む。
残り1.2kmの最後の第29給水地点で大会スタッフに写真を撮ってもらった。完走目前のためか笑顔である。
残り1km地点を通過、網野の市街地はすでに街灯が灯る暗さである。
ゴールテープを切る瞬間は、オールスポーツによる写真撮影もあり、後で購入可能なはずである。
最後の直線100m、自分でも逆方向から写真を撮りながら進む。場内放送では自分のゼッケンbニ氏名がコールされ、女性司会者から「お帰りなさい」の声もうれしかった。
先にゴールした2〜3名が止まっている。ゴールテープが再セットされるまで20m手前でしばらく停止して待った。
両手を挙げてライトを浴びながら満面の笑顔でゴールである。
写真に写ったゴールタイムは13時間50分20秒、後ほど送られてきた完走証のゴールタイムは13時間50分24秒であったが、そんなことはあまり関係ない。
100km地点ゴールのための最後の10kmラップは1時間33分51秒であった。
制限時間16時間の宮古島まで行かなくても、自分の故郷である京都府地元開催のウルトラマラソンでの100km時間内完走である。46歳9ヶ月、来年は年男である。これを契機に体重を減らし健康を回復していきたいものである。
完走メダルをかけてもらい周りの方にお願いして何枚か写真を撮ってもらった。目の前で増田明美嬢と写真を撮っている人がいたので、自分もツーショット撮影に成功。増田嬢とは握手をしてお別れ。私と同学年のはずである。
知らないおじさんが私に握手を求めてきたので誰かと思ったらゲストの坂本雄次さんであった。
そうこうしているうちに午後6時30分のゴール関門閉鎖の場内放送があり、女性司会者からはゴールを目指すランナーに悲鳴のような声援が続く。
午後6時30分を過ぎても第4関門を時間内通過している人には時計の撤収までは完走を認めてくれるようである。
後日送られてきた大会記録集によると最終のランナーのゴールタイムは14時間01分01秒であった。私のゴール後の10分間で38名程度がゴールされたことになる。90km地点を通過しながらゴールできなかった方も10名おられるようである。
ゴール後〜帰宅
京都行きの復路バスは午後7時出発である。30分しか時間がないので、あまりゆっくりと完走の感動に浸っているわけにもいかない。
痛い脚を引き擦りながら更衣室となる体育館内の柔道場に向かう。畳の上に寝転びたい衝動にかられるが、ここで眠ってしまっては、バスに乗り遅れてしまう。
両脚のサポーターの下、左膝が強烈に痛む。両脚の親指の爪は剥がれてしまっているのでは思うくらい痛い。恐々と靴下を脱ぐが、黒爪になりかけの程度であった。
着替えを済ませて網野庁舎裏のバス乗り場に急いだ。完走祝いの缶ビールを買い込んでバスに乗りたいところであるが、売店やおみやげ物屋にも缶ビールはなく、缶ジュース数本を買い込んだだけであった。
車中泊者用の往路バスはJR新大阪発の2台だけであったが、復路は通常の移動者も含めてJR京都駅、JR新大阪駅、JR神戸駅に向けてそれぞれ2台以上が用意されている。なかなかスムースな運営である。
午後7時過ぎにJR京都駅向けて出発。運転手の方によるとJR京都駅への到着予定は午後10時30分前後だろうとのことである。途中休憩の山形屋でのビール購入を期待するも午後9時閉店してしまうとのことであり、結局、途中休憩なしであった。京都駅から奈良方面や高槻方面への接続乗車の方もおられるので、やむをえないであろう。
出発直後に家族からは「生きてるか?」のメール。時間内完走を伝える。
バス車中から7年前の2002年第2回大会に出場された'なかやんさん'と'フーさん'に完走報告のメールを送る。'フーさん'から5分後、'なかやんさん'からも10分後にお祝いの返事が届く。
バス車中で周りのランナーはみんな眠っているが、私は左膝を中心に両脚の筋肉が強烈に痛みとても眠れないが、バファリンを飲んだら痛みは多少和らいできた。
午後10時40分頃にはJR京都駅に到着、地下鉄で烏丸今出川まで移動して、松屋でカレーライスを食べ、缶ビールを購入して、3.5km先の自宅までタクシーで午後11時30分に到着。
前日午後8時の出発から車中泊の強行軍であったが、ほぼ28時間で自宅まで戻ることができた。月曜日に仕事を休む必要がない土日の1泊2日で完結する地元開催のウルトラマラソンはありがたい。
今回は、秋のシルバーウィークの第2日目の開催であったため翌日以降3日間ゆっくり休むことができた。
レース総評
7年前、ほぼ同じ100kmのコースを'フーさん'は11時間15分22秒で、'なかやんさん'は12時間47分39秒で完走されており、私よりもはるかに速い。
今回は時間内完走のみが目標であったが、タイムアップのためには、今の自分には、登り坂をあまり歩かない脚力をつけた上で、さらに相当の減量が必要である。
平均時速7.225km/h、1km当たり8分18秒かかっていたことになる。
フルマラソンなら6時間、ハーフマラソンなら3時間のペースであり、同じマラソンといっても全く別物であった。
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